相手を活かす聴き方

 自分が話を聞かれる立場になった時に気分良く話せなかった。
 質問されているのだけど、どうにも答え辛く、言いたいことも言えず、自分の抱える想いも相手に伝えられなかった。
 それはなぜだろうと考えた時に、話を聞く側の視点について気づいたことがありました。

 

対等な立場として取り扱う

 見下されているわけではないのですが、試されている雰囲気が言葉の端々や所作に現れていて、私はそのことがとても不快だった。
 端的に言えば、空気が重かった。最近、ありがたいことに安心・安全に配慮された場に行くことが多かったせいもあって、そのギャップがより際立って感じられました。
 採用面接なんかもそうなのだけど、明らかに「審査してやる」という姿勢が透けて見えていると、無用な圧力を生んでその人が持つ良さが発揮されないことがあります。
 それって双方にとって不幸なことなんですよね。

 だから、たとえ相手が子どもだとしても対等であろうとすることはとても大事なんだなと感じました。
 それはただ気を使うのとは違って、感情も人格もある1人の人間として扱うことです。軽んじれば、相手は鼻じらむわけです。

相手を活かすスタンス

 「聴く」ことは相手を活かすためにする行為なんだと私は思っています。
 本人の想いや感じていることを受け取るのはもちろんですが、本人すら自覚できていなかった可能性を引き出すことが聴く=傾聴だと思っています。
 表面的な情報を引き出すためにただ「聞く」のは、別に誰でもできるし、質問フォームを送ればパソコンでだってできるわけです。
 あんまり公にはしていないけれど、この人だったら話しても問題ないかも、と思わせることができるのが傾聴。
 それは今のところ人間にしかできないんじゃないでしょうか。
 

適度な雑音の必要性

 他に物音のしない空間で顔を付き合わせて話すのは、沈黙が重みを増してしまいます。
 会話の隙間にふと訪れるエアポケットのような沈黙を居心地の悪いものにしないためには、適度な雑音が必要なんだと思います。
 カフェで流れる音楽もそういう意図があるのでしょう。

 空間的なデザインって本当に馬鹿にできないと最近つくづく思います。学校の授業も変えたければ、まず、黒板が前にあって先生が教壇に立つという統一された形式を変えてみたらいいんじゃないかと思います。

 
 

まとめ?

 まとめを書こうとして、ふと『なぜ、この人と話をすると楽になるのか』という本を思い出した。
 その本の中で、会話をする時は不快な沈黙こそが敵で、会話する相手はその沈黙を撃退するための仲間だというニュアンスのことが書いてあった。他者は自分の外にある敵ではなく、共に戦う仲間であるという考え方はシンプルでいながら、非常に洗練されていると感じました。
 私が感じた不快さは、この理論によって説明できると思います。期せずして、私と相手は敵対するような形になってしまいました。会話を面白く互いにとって有意義な時間にするためには協力する必要があったのでしょう。
 
 自分はできているつもりですが、いざ振り返ってみると聴く側に立った時にできていないことも多いことに気づきました。
 ただ聴くことの奥深さを未だに思い知らされる。まだまだ底が見えそうになくて、喜ばしいことです。
 
 

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